よく、わからない。汕子は何度も泰麒の髪を梳《す》く。では、こう覚えていらっしゃいませ。西王母も天帝も下々には交わらぬお方。お会いす
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ることもありますまい。ですから、泰麒より尊いお方は泰王しかおられないのだと。そのほかのひとは?玉葉《ぎょくよう》さまは、ぼくよりずっと偉《えら》いひ
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とではないの。玉葉、と名前でお呼びになれるのは、身分が等しいからでございます。さま、とお呼び
するのは、そのほうが礼儀にかなっているからです。難しいんだね。難しゅうございますか。うん。泰麒は足元の風景を見おろす。しばらく風を吸ってから、汕子に聞いた。どうすれば転変《てんぺん》できるようになるだろう。汕子は泰麒の少し憂鬱《ゆううつ》そうな横顔にあらためて目をやった。それは泰麒の生まれながらお持ちの力。必要になれば、必ず思い出されます。
そうかなぁ。泰麒は目を伏せる。
このところ女仙《にょせん》が、黒麒麟《きりん》を見せてくりゃれと、はやすこ
とが多い。泰麒にも女仙たちがいっぱいの愛情を自分に注いでくれていることがわかるゆ
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えに、できることなら転変して彼女たちを喜ばせてやりたいと思う。それでも、その方策
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がかいもく見当がつかないのだった。お焦《あせ》りになりませんよう。泰麒はただ、のびのびとお暮らしになればよ
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ろしいのでございますよ。うん。汕子の腕に顔をもたせかけたときだった。甫渡宮のほうの迷路に、ふたりばかりの人影が見えた。汕子。人がいる。汕子もまたそちらを見やってうなずいた。進香《しんこう》の女仙でございましょう。甫渡宮の祭壇に花と香を持っていったの
です。女仙と一緒に帰ろうか、汕子。奇岩の上から下の小道まで、泰麒には下りることさえできない。
Monday 20 February 2012 05:58
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甫渡宮《ほときゅう》。門の外にも宮があるの。離宮でございます。ふうん。泰麒は奇岩の上に腰を下ろした。しばらく緑の迷宮に見入る。奇岩の上には疾《はや》い風が吹いていた。見わたすか
ぎり、海などなさそうなのに、潮の匂《にお》いがした。どう、なさいました。しばらく風に吹かれていたら、汕子がそっと問うてきた。汕子がこんなふうに話しかけ
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てくることはまれだから、よほど考えこんでいたのだろう。泰麒はふと、外の迷路をたどっていた視線を上げて汕子を見た。汕子は転変《てんぺん》してそういう姿をしているの?それとも、最初からそうい
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う姿なの。汕子は泰麒の頭をやんわりとなでる。
女怪《にょかい》は転変いたしません。転変できるのは、その力が尋常《じんじょ
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う》ではないからです。ふうん。姿を変えることは、難しいことなのです。妖魔《ようま》のなかにも転化《てんげ》
するものがおりますが、そういった妖魔は王の手にも余るほど魔力甚大《じんだい》な
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もの。妖魔。妖《あやかし》の技を持ち、天の秩序に従わぬものを妖魔と呼びます。女怪も妖魔。汕子は首を振った。女怪は人と妖獣のちょうど間に位置するもの。人妖《にんよう》とも妖人《ようじ
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ん》とも申します。蓬山で生まれた女だけを特別に女怪と呼びますけれど。じゃあ麒麟《きりん》は妖獣。汕子は泰麒にだけそうと知れる表情で笑った。妖の技を持つ獣なのは確かでございますが。いいえ、麒麟を妖獣とは呼びません。麒麟は神獣と申しあげるのですよ。どうして。この世に麒麟より尊い方は神と王だけ。もっと正しく申しあげれば、この世に泰麒
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よりも身分の高いお方は、泰王《たいおう》と西王母《せいおうぼ》さま、天帝しか
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おられないのでございます。
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泰麒は汕子に抱き上げられたまま、しばらくその方角を眺めた。上から見た蓬廬宮は扇状をしている。もっとも奥の東の高台に捨身木《しゃしんぼく》
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があって、その先はない。切り立った断崖で、どれほどあるかわからない段差の下には、
人が歩くことさえ困難なほど複雑な奇岩地帯が果てもなく広がっているのだ。その高台を突端に、迷宮はごくゆるやかに下りながらその幅を広げていく。無数にある
枝道は堂々めぐりをくりかえしながら、やがてひとつの小道に収束し、その道が唐突に門
で区切られて、それが迷宮の終わりなのだった。迷宮の北は険しい峰だった。絶壁を作り、尖塔《せんとう》を作りしてはるかな高み
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へ駆けのぼる山は、汕子といえども登攀《とうはん》がむずかしい。東を断崖に北を絶壁に守られて、蓬廬宮をたずねるには門を抜け、複雑極まりない迷路
を正しく抜けるしかないようになっている。
そして、と泰麒は汕子の腕《うで》を下りて奇岩の頂上に立ち、背後を振りかえ
った。迷宮の外、南と西にはさらに下りながら、広大な迷路が続いていた。外の迷路と内の迷路は複雑に入り組んで、こうして上から見おろしていても、どこまで
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が内でどこからが外なのか見分けることができなかった。外の迷路は内の迷路に比べて、はるかに読み解くことがやさしい。道幅も広く、あちこ
ちに点在する広場も桁《けた》違いに広い。あてずっぽうに歩いても太陽の位置さえ
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把握《はあく》していれば、ここまで来るのはそう難しいことではないだろう。そう思いながら見渡して、泰麒はかなり離れたところにある奇岩の麓《ふもと》に、
翠《みどり》の釉薬《うわぐすり》の輝きを見つけた。汕子、あれはなに。指さすと、汕子もまた真円の目をそちらへ向ける。
Monday 20 February 2012 05:57
転変できない不完全な麒麟が、王を選ぶことができるのだろうか。泰麒《たいき》はとぼとぼと小道を歩いていた。目的があって歩いているわけではな
いし、だから道の様子など見てはいなかったが、汕子《さんし》がいれば道に迷うこと
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はありえない。そもそも、泰麒だって自分が住む露茜宮《ろせんきゅう》の周辺以外は、
まったく道などわかりはしないのだ。あてもなく歩いているうちに、ふいに小道の先に行く手を遮《さえぎる》る門が見え
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た。扉はぴったり閉ざされて、完全に道を遮断している。これが蓬廬宮《ほうろぐう》の果てだった。露茜宮からここまでは、まっすぐに来て
も相当の時間がかかるはずだが、それでは驚くぐらい長い間、自分は物思いに沈んでいた
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らしい。
泰麒は溜《た》め息《いき》をついた。門には内側に閂《かんぬき》があるばか
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り、開けようと思えばたやすく開けられるが、門の外にはけっして出てはならないと、そ
う女仙《にょせん》たちに教えられていた。そのままひきかえす気にもなれず、泰麒は背後を振りかえる。無言で後をついてきてい
た汕子に向かって手を伸ばした。汕子、上に連れていって。汕子はうなずいて、泰麒を抱き上げる。普通の女ならそれが困難なほど泰麒はもう大き
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いが、蓬山《ほうざん》に帰って以来見かけほどの重さはない。仙骨《せんこつ》と
かいうものがあって、泰麒はうんと軽いのだ。それで汕子は苦もなく泰麒を抱きあげて、
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軽く岩壁を蹴《け》ると奇岩の上に向かって駆《か》けあがった。岩の上から見おろした蓬廬宮は迷路そのものだった。ところどころに碧《あお》く輝いて見えるのは数々の宮の屋根、迷路の奥には白い木
の枝が陽射しを受けて輝いて見える
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蓉可も蓬莱の事情をよく知るわけではないが、過去に蓬莱から帰ってきた麒麟の例があ
るので、噂話でとはいえまったく知らないわけでもない。キリンになるのって嫌な感じがしないのかなぁ。転変を嫌がる麒麟はいませんから、べつに嫌なことじゃないんだと思いますよ。変じゃないのかな。少しも変じゃありませんとも。言ってから蓉可は泰麒の髪を指で梳《す》いた。泰麒はね、普通の麒麟とは少しちがいます。普通の麒麟は、廉台輔《れんたいほ》の
ように金の鬣《たてがみ》をしているものですから。泰麒は黒麒麟なんですって。黒麒
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麟は珍しいんだそうですよ。早く蓉可にも見せてくださいまし。鬣の色がこんなにき
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れいなのだから、きっとおきれいでしょうね。でも、どうやってなるのか、想像もつかない。でしょうね。蓉可は息をつく。
あたしにも、想像もつきません。あたしは麒麟《きりん》じゃないし、だから転変
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《てんぺん》したことなんてないですもの。もしも機会があれば、玄君《げんくん》
にお聞きしておきましょうね。うん。まだどこか釈然としない様子《ようす》でうなずく泰麒を見つめながら、禎衛は内心
で眉をひそめた。十年もの長い間、人として暮らしてきた泰麒がはたして転変できるのだ
ろうか。転変しない麒麟はいないが、もしもその最初の例になれば、それはかなり不憫
《ふびん》な話だ。玉葉《ぎょくよう》に聞けばわかるのだろうが、肝心《かんじん》の玉葉には会い
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たくて会えるものではない。しかも、泰麒にはもうあまり時間がなかった。禎衛はなにごとかを言って笑いあう泰麒と蓉可から視線をそらし、不安な気分で暮れは
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じめた空を見あげた。幸い春分は過ぎたが、夏至《げし》には確実に人が昇ってくる。
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